新産業をイノベーションで創成する


1.イノベーションとは

イノベーションとは、というとすぐシュンペーターのイノベーションを解説する人が少なくないが、今は、世界最高のイノベーターとなっている、スティーブ・ジョブスの言葉をまず聞こう。
「イノベーションは、新しいアイディアについて廊下で立ち話する人や、夜の10 時半に電話をかけ合うような人たちから出てくる。誰も見たことがない最高なものを思い付いたと考える誰かが、そのアイディアについて他の人の意見も聞きたいと呼び掛けて集まった6 人だけの急なミーティングだったりもする。そして、間違った方向に向いていないか、やり過ぎていないかを確かめるため、1000 の項目にノーと言うことから生まれる。」『BusinessWeek Online』2004 年10 月12 日記事
また、こうも言っている。
「イノベーションは、研究開発費の額とは関係がない。アップル社がマックを開発したとき、米IBM 社は少なくとも私たちの100 倍の金額を研究開発に投じていた。大事なのは金ではない。抱えている人材を、
いかに導いていくか、どれだけ目標を理解しているかが重要だ」『Wired』誌1996 年2 月号
スティーブ・ジョブスに関してはやや神格化されすぎているきらいもあるが、「製品をデザインするのはとても難しい。多くの場合、人は形にして見せてもらうまで、自分は何が欲しいのかわからないものだ」という言葉はイノベーションに挑戦する人には重要だ。ここではイノベーションに挑戦しようとしている人に役立つと思う話をしよう。


2.イノベーションの学術研究

爆発する知識

イノベーションとは何か、その要件はなにか、に関する学術研究、これをイノベーション学といっておこう、は近年精力的に行われてきた。
1970 年以降、2007 年まで、innovation という言葉をそのタイトル、キーワード、アブストラクトという書誌事項に含む論文が、累計で4 万2444 件がISI のScience Citation Index 及びSocial Science Citation
Index 論文データベースから抽出された(2007 年5 月)。論文数の年別の推移を図1 に示す。全体の論文数は、1990 年代中庸から急激に増大し、2000 年前後から年間2000 本、2004 年以降は年間3000 本以上に達している。これはとても読み切れる数ではない。これは典型的な「知識の爆発」という、プラチナ構想で上げているパラダイムシフトである。この課題に挑戦すべく、われわれの研究グループでは、情報技術の応用として、「学術知識の俯瞰」プロジェクトを推進している。これを応用して、膨大なイノベーション学に関する研究論文を俯瞰的に構造化して、さらに可視化してその全貌を理解して、イノベーションとは何か、という問いに対する1つのモデルを探求することにした。

図1 年別論文数および累積論文数

学術知識の俯瞰的認識

まず、論文データベースから抽出した4万2444件の論文の、引用ネットワーク分析を行った。引用関係にある論文が形成するクラスターの中で最大のクラスターに注目した。そのクラスターに含まれる論文は1万3181論文であった。それ以外の論文はイノベーション研究において他との関連性は低いと判定し、分析から除外した。この引用関係のネットワークを、可視化してイノベーション学の研究全体の俯瞰図を作成した。(図2)

図2 イノベーション学の学術俯瞰マップ

この俯瞰図からわかるように、イノベーション学は大きく3クラスターすなわち、3領野から構成されている、クラスター1は、「イノベーション創成の環境基盤」に関する研究論文、中心部にあるクラスター2は「技術革新の仕組み」関する研究論文、右のクラスター3は「イノベーション・マネジメント」に関する研究論文のクラスターである。すなわち、イノベーション学の研究は、「技術革新昂進の仕組み」と、「イノベーション創成のための環境基盤」、「イノベーション・マネジメント」の3分野が研究の中核テーマであり、「技術革新の仕組み」を中心とした3層の構造であることが判明した。さらに各クラスターは、4つのサブクラスターに分かれており、さらにそれぞれをいくつかの大きな研究領野に分解することができる。(表1)
加えて3クラスターに対して、主要なクラスターの全体に分布している横断的クラスターが存在している。一方、主要なクラスターの外縁では関連する研究があり、それは主要なクラスターとも一部重なっている。各クラスターの基本情報をそのクラスターに含まれる論文に共通するキーワードとともに表1に示す。
表の中のAgeは、2006年を0として、クラスタター全体の、発行年年数が何年前かであって、Ageが5.0はそのクラスターの論文の発行年の平均が2001年であることを示している。これから見ると2000年以降、「イノベーション創成の環境基盤」に関する研究が盛んになっていることが判る。因みにイノベーション学の研究領野で新しいのはKnowledge Management、Product Developmentということが判る。また、90年代は「イノベーション・マネジメント」という組織論の研究が盛んに行われたようだ。
この学術俯瞰図は色々な情報を与えてくるが詳細は「知の構造化の技法と応用」(社)俯瞰工学研究所2011を参考にしてほしい。また以上は東京大学の俯瞰工学研究室博士課程の橋本正洋さん(現特許庁 審査業務部長)の研究の一部である。

表1 主要3クラスターのサブクラスター別の特徴


3.技術革新の仕組み:オープンイノベーションの推進

オープンイノベーションの背景

近年、企業の研究開発を取り巻く状況に大きな変化が生じている。優秀な研究者を抱え込むことが困難になり、自社内部で研究開発をすべて行い、そして商品化するというこれまでのイノベーション戦略が通用しなくなっているのである。したがって現在では自社完結型のクローズドイノベーションから脱却し、オープンイノベーションを行う必要があることが認識されている。クローズドイノベーションの崩壊の背景は以下の4つであるといわれている。

(1)優秀な人材の流動化

優秀な人材が大企業だけでなく、ベンチャーや大学などに流動することによって、これまで大企業のみが蓄積してきた知識がそれらの企業や機関にも保有されるようになった。また人材の流動化は競争相手にコスト無しに優秀な人材を獲得される可能性を高めるものだとして、大企業は人材育成に巨額の投資を行うことを躊躇うこととなった。それにより自社で優秀な人材を抱え込み続けることが難しくなった。

(2)ベンチャーキャピタルの発展

ベンチャーキャピタルの発展により、ベンチャーは資金調達を以前よりも容易に行うことができるようになった。それによりベンチャーは優秀な人材を雇うことも可能になり、彼らの提供するストックオプションなどの魅力のために、大企業は優秀な人材を保持することが難しくなった。

(3)アイディアの流出

研究部門から生まれたアイディアがいつまでも商品化されないケースはこれまでもあったが、前記の人材の流動化とベンチャーキャピタルの発展などの背景により、こうした開発部門の意思決定に不満を持つ人間は社内から独立、流出する選択肢をとるようになった。その結果として企業の蓄積されたアイディアの外部への流出が増加することとなった。自社内のみで知識を蓄積し続けることが難しくなった。

(4)外部サプライヤーの登場

外部サプライヤーとは、製品を開発を行う際に、社外から経験・資金・知識を提供する存在である。彼らが開発の一部を請け負うことによって、よりスピーディに開発にこぎつけることができる一方で、競合企業が外部サプライヤーを使う可能性も高まるが、スピーディに開発するために外部サプライヤーを利用することが増えた。

(5)サイエンスとテクノロジーが接近

技術開発のフェイズが半導体の微細化や電極の白金代替に見られるように、物理や化学の法則にチャレンジするような、よりサイエンスに近い知見が必要になって、企業の開発現場だけで手に終えなくなっている。
上記のような背景でクローズドイノベーションの時代は崩壊した。オープンイノベーションとは何か。簡潔に述べるならば、外部に存在する知識を獲得し、外部のアイディアと自社の知識を結合させ、顧客価値を創造することである。
企業は自社に必要となる知識を自社内のみで調達するのではなく外部を活用する必要があるが、日本の企業はインテルサムソンのようにオープンイノベーションがうまくない。ともかく社内・社外の知識を有効に活用することでアイディアの商品化を実現していくこととなる。それは自社において研究開発機能が不要であるということではない。企業は、自社の研究開発部門において外部の知識を評価し、外部や自社にある知識をどのように結合させるべきかを考案しなければならない。

オープンイノベーションの事例と現状

外部の知識にアクセスする方法として、大学やベンチャー企業との提携や投資、ライセンシングなどの手法が提案されている。実際にこのような方法を用いて外部の知識を有効に活用している事例としては、インテルがよく紹介されている。
インテルは外部の知識を効率的に活用することを徹底し、必要な研究分野のうち五年以上の時間を要するものはすべて外部の研究機関と提携しているという。外部の大学との共同研究の際には大学構内に研究所を設立し、緊密な関係を構築し、外部の知識へのアクセスを効率的に行っている。他にも研究プロジェクトへの協賛やジャーナルの発行などを行い、外部研究機関との関係性を強化しているという。
また研究機関だけではなくベンチャー企業もインテルにとって重要な外部知識の獲得の対象となっている。インテルは自社にインテル・キャピタルという投資機能を有し、ベンチャー企業に対する技術協力や投資を行っている。
インテル・キャピタルの目的は、単なる投資リターンの獲得だけにあるわけではない。インテル・キャピタルではエンジニアが案件をデューデリジェンスすることにより、インテルにとって必要な外部の知識を提供する企業に対象を絞り、その外部の知識へのアクセスを容易にしている。
このようにインテルは外部の研究機関・ベンチャー企業への投資・提携を通じて、外部の知識を効率的に吸収している。こうしたオープンイノベーションの機運は日本でも高まりを見せている。

オープンイノベーションの課題

まず、外部知識の吸収を最も効率的に達成する外部との関係性の在り方とはどのようなものか、という点である。たとえば、外部から知識を獲得する場合においては外部との提携が重要なことは先述したが、ひとつの企業との関係性を強化すべきなのか、あるいは同様の知識を有するだろう企業群と薄く広い関係性を構築すべきなのか、どちらがより外部からの知識の吸収に寄与するのだろうか。
また新技術を商業化する際に企業単独ではなく、複数の企業が属する集団で商業化を推進するケースも想定しなければならない。そして、複数の企業で商業化を推進する動きが出てきたとしている。複数企業による新技術の商業化の例として、コンソーシアム型による標準化の決定などがあげられる。コンソーシアム型の標準規格の決定の増加の要因は、
(1)各業界の企業の技術力の拮抗を背景とするガリバー企業の不在
(2)負け規格に乗る損失の拡大
(3)家電業界における財務体質の悪化に伴い、企業がリスクを取りづらくなったこと
であるといわれている。そうした複数企業による新技術の商業化を行う場合には、各企業が新技術の普及に向けて機能することが重要である。そのためには各企業が活動にあたり必要な知識・資源が充足していなければならない。すなわち、陣営の知識の獲得・移転が最適化されることが必要であると言える。
知識の移転を効率的に達成する関係性の在り方とは何か、ということは、複数企業による商業化の場合には複雑である。陣営内だけではなく、陣営外からの知識の獲得を考慮する必要があり、企業は陣営外と陣営内の両面において関係を最適化することが求められるからである。

コンソーシアム型によるオープンイノベーションの事例

コンソーシアム型によるオープンイノベーションの事例として次世代DVDのケースを紹介しよう。よく知られているように次世代DVDの規格競争はオープンイノベーションの競争でもあった。
次世代DVDの規格競争の流れを以下に簡単にまとめる。まず次世代DVDの起源には、DVDブルーの開発があったとされている。ソニー、パイオニア、フィリップス(オランダ)は0.1mmの厚さの保護膜の開発に成功し、2000年にそれらに松下、日立が加わり、次世代DVDの元となるDVDブルーの開発が行われた。松下、日立はDVDコンソーシアムの6Cグループに所属するメンバーであり、特許を一元的に管理する他、DVD-RAMの規格を策定したメンバーであったため、DVDの事業に関しては共同で行動する機会が多かった。同じく6Cメンバーの一角でDVD-RAMの規格を推進していた企業として東芝があるが、東芝はDVDブルーの開発には携わることはなかった。その後、DVDブルーのメンバーに加えて、トムソン(フランス)、サムスン、シャープ、LG電子が加わり、その9企業でブルーレイ・ディスクの規格を提唱することになった。
一方で東芝側にNECが加わり、ブルーレイ・ディスク陣営に対抗する形で、次世代DVDの規格として、AOD(アドバンスド・オプティカル・ディスクの略である)の規格を提唱し、このAODの規格が後のHD-DVDとなった。そこから多くの関連業種のメーカーや映画制作会社が各陣営への賛同あるいは離脱を行うこととなった。
両陣営の提携関係のネットワーク図3に示す。これは報道された情報を基に、言語処理技術によりネットワークとして分析した。

図3 次世代DVDの提携ネットワーク

このネットワーク図におけるエッジは企業間の太さは提携関係の数に比例する。
次にどのような提携が知識の移転につながっているか、特許から分析する。特許の情報としては、光ディスクの基礎技術のクエリ、各陣営の課題解決につながる重要技術のクエリにより取得した。ただし、課題解決のクエリに関しては、次世代DVDの研究開発に寄与するような新しい技術を抽出するため、規格競争の端緒となったDVDブルーの開発の2000年以降の出願に限定した。2000年から2008年2月までの特許の引用引用のネットワークが図4である。図3の上に特許引用を重ねるとまた興味深いがここでは割愛する。

図4 提携ネットワークの特許引用関係

ノードの大きさは特許件数をさす。またエッジの矢印は、知識移転の方向をさし、エッジの太さは知識移転の回数をさす。やはり大きいノードには数多くのエッジが発生しており、先の知見の整合性が確認される。
また提携関係では出てこなかったリコーやキャノンといった企業もネットワークの比較的中心に位置しており、サムスンやパナソニックといった技術力のある企業から知識の発信あるいは受信を行っていることがわかる。よってそのような他業種からの技術移転を中心的な企業が担い、それを他の企業に伝搬する役割を担っているのではないかと考えられる。時系列で比較したときに、初期には他業種からの知識移転が多くなり、後期にはその知識を他社に伝播するケースが多くなる傾向がみられる。
また、ブルーレイ・ディスクの中心企業群のブロックと、HD-DVDの中心企業のブロックはともに知識移送が生じていることがわかる。ブルーレイ・ディスクあるいはHD-DVDの中心企業群においても、異グループ間ではほとんど知識移転が起こっていないことがわかる。また周縁企業でも知識移転は生じているが、ソニーや東芝のような各陣営の中核との間の知識移転ばかりである。

BD陣営の課題とその解決

比較的確立した技術を基にしたHD-DVDに対して、BD陣営はイノベーションを必要とする多くの技術課題を抱えていたが、オープンイノベーションはこれを次々と解決していった。表2にその課題と解決した提携企業を示すが、提携の外延部の企業の貢献が目を引く。これがオープンイノベーションの威力であろう。

表2 課題ごとの解決日と解決する技術の保有企業

ケーススタディー教えるオープンイノベーションの成功要件

そして、次世代DVDのケースで、なぜブルーレイ・ディスク陣営が勝利したのかを分析した。その結果、HD-DVDの2つの失敗、すなわち、製品販売における東芝への依存と、研究開発の遅れの脱却には両方とも、提携を必要とする部分が大きいが、HD-DVD陣営はこのオープンイノベーションがうまく働かなかったことがわかった。またオープンイノベーションはいずれも知識移転を目的とするものであり、複数企業による新技術の商業化においてもオープンイノベーションが重要である、ということを指摘することができる。
そこで、ネットワーク分析を用いて次世代DVDにおける各陣営の提携ネットワーク構造の特徴と、さらに提携や企業の属性と知識移転の関係性を評価すると、特許量の総和、専門の重複性が非常に知識移転に重要であることがわかった。また複数回の知識移転には、密度が大きな役割をもつこともわかった。ケーススタディーの結果を要約すると、プロジェクト前半に技術力が高く、専門重複性の高い企業が補完的な技術を有する企業から、知識移転を受け、技術課題を克服した。そしてプロジェクト後半に、製品会開発の知識を陣営内に広める構造であった。
以上のBDとHDDVDの開発競争の事例研究から得られた知見は。
(1)複数企業による新技術の商業化のケースでもオープンイノベーションの視点は非常に重要である
(2)知識移転を効率に受けられる企業は送り手と専門重複性が高く、特許件数が多い技術力の高い企業であり、複数回の移転を受けるには送り手・受け手ともに密度の高いブロックに属することが重要である。また一回目の知識移転には社会的結合が寄与する。
(3)新技術の商業化に際しては、まず補完的な技術を技術力の高い先端的な企業が獲得し、それを技術的に中庸な企業に伝搬させる構造が有効である。よって、前半と後半においては知識移転構造に大きな変化が生じる。
(4)新技術の普及に際しては、製品提供能力の高い企業に優先的に知識の移転を行うことが望ましい。
 以上のオープンイノベーションに関する研究は修士課程の松原紀明さん(現みずほ証券株式会社)とおこなった。

4.イノベーションのモデル

顧客価値創造のイノベーション

イノベーションに関する優れた研究は山ほどあるが、どうしたらイノベーションを起こすことができるのか、という誰もが知りたいことはほとんど提案されていない。純粋な学術研究はイノベーションそのものであり、手法は確立されているといえるが、この手法は企業の製品や産業のイノベーションには適用できない。市場におけるイノベーションは顧客価値の創造でなければビジネスとして成功しない。しかしながら、顧客価値創造という視点からイノベーションの意義と目的、そして方法までを包括的に論じた研究は存在しなかったと思う。これまでのイノベーションの研究は、イノベーション学の俯瞰図で見たように、技術革新の仕組みと、イノベーション創成のための環境基盤、イノベーション・マネジメントであるが、実務者からは戦略構造論的、もしくは組織行動論的なコンピテンスや知識の提示に終わっている。そこで、ここでは顧客価値の創造をイノベーションの目標とする独自な観点から、戦略と組織を統合した新たなイノベーションのモデルを提示したい。

体験価値と提供価値

いわゆるマーケッティング論は、顧客が商品の購入によって受け取る価値を最大化する事を目的としている。すなわち、製品機能に対する価格や品質などの顧客にとっての基本的な価値、そして期待された製品であることや、手にして受け取る喜びや納得という価値も含まれる。さらに顧客がまったく想定していない商品が提供され、そこから受け取る驚きや感動を与えられる価値も含まれる。スティーブ・ジョブスの感性に基づく一連のアップル製品の成功はこの良い例である。この顧客価値をもう一段深く理解するため、顧客価値を体験価値と提供価値に因数分解することから始めよう。
体験価値とは、特定商品に関する情報収集から、評価、購入、利用、サポートまでのすべての接点を通して顧客が感じとる包括的な価値であり、かつ顧客一人ひとりによって感じ方が異なることから、より主観的な価値ともいえる。すなわち、顧客が求めているのは技術スペック的な機能ではなく、満足のいく利用体験であり、それを支えるための一連の上質な顧客接点なのである。たとえば、それは製品ハードウェアに込められた先端技術による魅力的な高機能もあれば、それを駆動させるソフトウェアによる円滑な使い勝手、インターネットを通したサポートサービスの充実、購入時の店舗での洗練された商品陳列、店員の感じの良さ、広告で補強されるスマートな印象、さらには他のユーザとの連帯感などまでが含まれる。すなわち、今日のイノベーションの対象には、狭義の製品そのものだけでなく、販売の仕方やマーケティングの手法も含めて、あらゆる顧客接点上の創意工夫と丹念な作りこみをも含まれるべきである。
体験価値は、さらに機能的体験価値と感情的体験価値に分けることが可能だ。たとえば、機能的体験価値とは、文字通り製品機能が顧客の五感に訴えかけて、顧客に新たな感動を引き起こす類のものであり、たとえば、機械であれば操作性や動作性、小売業であれば品揃えや店舗ネットワークの周密性、などが相当する。一方、感情的体験価値とは、ブランドに代表されるような、その製品を保有や消費することで得られる満足感や、優れたデザインに感じるような精神的な高揚感であり、特定の製品機能とは直結しない抽象的な概念であり、顧客が感性によって評価する価値であるこのように体験価値とは機能的体験価値と感情的体験価値の総和である。
一方の提供価値とは、生産者による商品提供の創意工夫が、価値はスペックとして直接的に顧客に訴求するものであり、価格、品質、納期などが相当する。当然、製品の基本的な機能やオペーションを磨く込むことで提供価値を高めることは、製品の競争力を増進する。
以上を踏まえて、イノベーションとは、新たな顧客価値を創造するために、体験価値と提供価値の革新を追求するダイナミックな営みと定義できる。たとえば、新たな体験価値を創造するためには、重要な顧客接点において顧客に驚きや感動を与えることが必要となるが、こうした優れた体験価値を経済的に実現するためには、製品開発時のアーキテクチャの設計や、製品を生産・流通させるためのサプライチェーン上の改革など、事業運営の仕組みを、創造的に革新しなければならない。また、このような革新を通して、合理的な価格や安定した品質、確実な納期で顧客に製品が提供されることにより、提供価値の向上に結びつけることが重要である。製品イノベーションとは、このような一連の創意工夫から、まったく新たな顧客価値を創造することなのである。

イノベーション創成の環境基盤

それでは、いよいよこのような新たな顧客価値を創造するためのイノベーションの実現の方法を考えていきたい。
一般的に企業は特定の製品を顧客に提供するために、製品のアーキテクチャを設計し、調達・生産、流通・販売、そしてアフターサービスを含むバリューチェーンの組み立てなど、事業を営むための一連の仕組みを構築し、運営している。このような特定の製品を開発・提供するための一連の仕組みを、ここでは「製品プラットフォーム」と称する。実際のイノベーションは、このような「製品プラットフォーム」上のアーキテクチャバリューチェーンを創造的に革新する行為であり、これを通して企業は製品の体験価値と提供価値を改善していく営みとも言える。
ここでイノベーションを通した顧客価値の創造を概念的に整理するために、顧客価値を構成する体験価値と提供価値を直交する2軸とする「スマート・リーン・マトリックス(SLM)」というモデルを導入したい。SLMとは、体験価値を示す縦軸をスマート(Smart)軸、そして提供価値を表す横軸をリーン(Lean)軸によって形成される平面である(図5)。
スマート軸は、顧客の体験価値を表しており、これを飛躍的に高めるためには、優れた顧客接点の設計と作りこみを通した、感動体験の創造が求められる。リーン軸は顧客の提供価値であり、これを高めるためにはコストや機能性など、製品の基本的なスペックやオペレーションの革新が必要である。このスマート軸上の体験価値とリーン軸上の提供価値の双方を革新し、まったく新たな顧客価値を創造することができれば、きわめて効果的な製品イノベーションが実現されることになる。そのための営みが、前述の製品プラットフォームの革新なのである。
すなわち、企業は製品プラットフォーム上の革新を通して、斬新で価値ある体験を顧客に提供することができ、その製品の位置づけをSLM上のより上位の象限にシフトさせていくことができる。

図5 スマート・リーン・マトリクス(SLM)

さて、このスマート・リーン・マトリックス(SLM)からイノベーションに関する多様な示唆と気づきを引き出すことができる。たとえば、スマートとリーンの両軸で囲まれた平面上に、現在の顧客価値の均衡を示す価値双曲線(トレードオフ)を表すことことができる。この価値双曲線は、たとえばある時点における自動車や家電などの多様な製品群を、いわゆるハイエンドからローエンドまで機能と価格帯別に分類して、この双曲線上に展開することができる。その双曲線こそは、一定時点における自動車なり家電製品が提供する顧客価値の均衡と解釈できる。あるいは、SLM上で示された双曲線とは、一定時点における顧客の価値基準を表している、と解釈できる。ということは、効果的イノベーションとは、その均衡(双曲線)を突破(ブレークスルー)することであり、「顧客の価値基準をシフトさせることである」と言えるのだ。逆に、顧客価値のシフトがないまま、既存の双曲線上で機能の作りこみを行ったところで、せいぜい高コストのニッチ製品に留まってしまうであろうし、ひたすら大規模生産などでコストダウンを行っても、付加価値を生まないコモディティ製品に堕してしまうリスクが大きい(図6)。

図6 ニッチ化、コモディティ化そしてイノベーション

身近な事例で説明すると、携帯電話の世界では、日本の携帯は高機能化でニッチ化を追い、結果としてガラパゴス化してグローバルな成長から取り残された。一方、ノキアは標準的な機能と中国生産の低価格化というコモディティ化で覇権を失った。結局スマートフォンという顧客価値のシフトというイノベーションを先導したスティーブ・ジョブスのAppleが勝者になったが、さらにここでコモディティ化を仕掛けているのが、AndroidのソフトのGoogleと、ハードのSamsungという構図と捉えることができる。

イノベーション・マネージメント

以上から、「イノベーションとはSLM上の顧客価値のシフトを実現すること」であり、そのためには「プラットフォームの革新」が必要であることが判る。つまり、「プラットフォームとは新たな価値基準を実現するものである」ことから、抜本的なプラットフォームの革新が行われると、顧客の価値基準は不可逆的にシフトしまうことになる。
このSLMから破壊的イノベーションに関する明快な理解も得られる。すなわち、新たな顧客価値を創造するような抜本的なプラットフォームの革新が一旦起きてしまうと、顧客の価値基準が完全にシフトしてしまうため、旧いプラットフォーム上の製品は一気に淘汰されてしまう。これこそが破壊的イノベーションである。
そこで問題となるのは、製品を開発・生産・販売するためのプラットフォームとは、企業にとっての収益創出システムそのものでもあり、その利益を共有する多様なサプライヤーや販売店と形成された有機的な組織体でもあることから、劇的な変化に対して防衛的に機能することである。すなわち、目下の利益防衛を優先し、かつそれを支える既存のステークホルダーとの関係に縛られてしまうと、破壊的イノベーションを実現することはできない。それどころか、他の誰かが革新的なプラットフォームを形成し、それにより生まれた製品が顧客の価値基準を引き上げてしまうと、それまで競争優位であった製品や企業は、一気に劣位のポジションに陳腐化されてしまうことなる。これがプラットフォーム転換を伴う破壊的イノベーションのインパクトであり、ソニーのウォークマンがiPodに一気に携帯音楽機の覇者の地位を奪われ、また日本のキャリアが主導して形成した一連のガラバゴズ携帯の凋落がその例である。
したがって、企業が特定の製品において持続的に成功を続けるためには、これまでの成功をもたらした製品プラットフォームを自ら破壊するような、挑戦的な姿勢を持ち続けることが必要であり、過去の成功体験を払拭し創造的破壊を主導するようなリーダーシップが必要となる。そのためには成功している既存のプラットフォームに拘束されることなく、創造的なアイデアや柔軟な知識の交換を通して、新たな顧客価値を創造し、顧客の価値基準を大きく引き上げるほどの製品を開発・提供しなければならない。そのようなリーダーの代表であるジョブスは、「イノベーションはリーダーとフォロワーを仕分ける」と言明している。
総括すると、商業的イノベーションとは単なる技術革新や機能拡大ではなく、新たな顧客価値を創造するものである。したがって、顧客にとってのまったく新たな価値を追及することが重要であり、またそれを実現するために要素技術だけでなく、その製品を開発・生産・提供するための製品プラットフォームそのものを革新することが必要なのだ。そのためには、自己否定をいとわない自由な発想を組織の中から紡ぎだすことと、一方で発散しがちな自由な発想を1つの具体的な製品プラットフォームの実現に向けて方向付けしていくこと、その両方が求められるのだ。
すなわち、イノベーションの昂進を推進するには、経営者がリスクを引き受け現場に大胆な発想の動機づけを行う一方で、目指すべき新たな顧客価値や製品のコンセプトを明示することで、組織に求心力を与えることが重要となる。さらには、コストや品質に対して妥協を許さず徹底的にこれを追求する姿勢も重要である。経営者自身がイノベータとして、既成概念を打破し常に革新的な発想、顧客価値の洞察、そして果敢な意思決定により、現場のイノベーションのリーダーにならなければならない。これがイノベーションを育む組織作りを目指す経営者のあるべき姿である。
以上は東京大学の俯瞰工学研究室における博士論文の平野正雄さん(現カーライル日本共同代表)の研究の一部である。

5.イノベーションによる新産業の創出

現下の日本の課題を解決するためには、イノベーションによる新産業の創出が何よりも求められる。これまでの伝統的な製造業は言うまでもなく、サービス産業、農林水産業、知識産業のすべてにおいて既成の常識と利権を打破して、新世界を拓かない限り、日本の豊かな未来はない。その豊かな未来の日本のビジョンがプラチナ構想であるが、その生活基盤を支えるのは新産業である。今やっと萌芽の産業、まだ顔を出していない産業がそれにあたる。既成の製造業、農林水産業、サービス産業もイノベーションで新生しなければならない。このすべてが、イノベーションを必要としている。
本稿では、イノベーション学を俯瞰して、改めてイノベーションとは、単なる技術革新だけでなく、それを育てる整備された基盤と、その上の活動をマネージメントする優れたリーダーシップの三層構造であることを再確認した。そして顧客価値を創造する製品プラットフォームの革新こそがイノベーションを追求する行動であることを示した。さらにその、プラットフォームの革新は、濃密なネットワーク構造による知識移転という、オープンイノベーションの行動が成功要因であるというイノベーションの方法論まで踏み込んで提示した。
最終的なイノベーションの成否は、しかし、イノベーターたらんとする強固な人間の意志にすべてかかる。このような先頭に立つ勇気を、称え、育て支援していくことに全力を尽くしたい。
引用文献は学術論文ではないので省略させていただくが、上記2、3、4は東京大学の総合研究機構・俯瞰工学研究室のオリジナル研究で、当該の博士論文、修士論文には詳細な引用文献リストが含まれている。オープンイノベーションの一般論については数多くの人が様々な形で紹介しているが、どれが原典か時間を掛けて精査できなかったので省くことをご容赦願いたい。
松島 克守(まつしま かつもり)
俯瞰工学研究所 所長(東京大学 名誉教授)
東京大学工学部卒業、IHIの航空機エンジンの生産技術 者を経て、東京大学で生産システムの知能化の研究に従事。西ドイツ・フンボルト財団の奨学研究員としてベルリン工大でCAD/CAMの研究に従事。日本IBMで、パソコン、製造業のマーケティング戦略を担当。プライスウォーターハウス日本法人の常務取締役。99 年より東京大学工学系研究科教授。経営戦略学専攻で「俯瞰経営学」を講義。研究活動 として、ビジネスモデル、地域クラスター知の構造化を推進した。総合研究 機構・機構長、イノベーション政策センター長等を歴任、09 年 3 月退官。
社会活動
(NPO)ビジネスモデル学会会長
(NPO)IT コーディネータ協会理事
(財)ディジタルコンテンツ協会理事
(社)日本工学アカデミー会員
この他、地域経済活性化、企業のIT化推進、産学連携等の政府関係、自治体の委員会の委員を務めている。
主な著書
・『俯瞰経営学』(工業調査会)
・『今、そして未来』(工業調査会)
・『地域新生のデザイン』(共著、東大総研)
・『MOT の経営学』(日経 BP 社)
・『動け!日本 イノベーションで変わる 生活・産業・地域』(編、日経 BP 社)
・『機械の故障診断』(共訳、プラントエンジニアリング協会)他
経歴・業績詳細
URL:http://www.fukan.jp/研究員/松島-克守/

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